長距離ランナーの孤独 神宮寺寂雷と波羅夷空却についての考察

 


神宮寺寂雷と波羅夷空却の違いは何か
もしくはシンジュクとナゴヤの違いは何か

 

ということがセカンドバトルからずーっと心に引っかかっていました。どちらもリーダーが助ける/導く/救う/補うといった思想を持っている、宗教色が濃い目のチームというイメージがあるけれど、このチームが『Light&Shadow』で戦ったわけです。

寂雷も空却も、より良い世界を目指しているはず。寂雷はみんなを救おうとしているし、空却はみんなを導こうとしている。ふたりの見ているゴールは近い。

なのに、なぜ空却は『Light&Shadow』で寂雷に「救うなんておこがましい ただ補うだけ」と返し、寂雷の姿勢をちょっとディスったんだろう???なぜ寂雷と空却は似ているようで違うんだろう???

というのがずーっと謎だった訳ですが、最近もしかしてこういうことかも!と自分なりの決着がついたわけです。

それは、寂雷は大乗仏教的な考えの人で、空却は上座部仏教的な考えの人なんじゃないか、ということ。

仏教というのはざっくり大乗仏教上座部仏教に分けられます。
大乗仏教とは、そのうちすげー存在が我々を救ってくれるから、そのために我々は祈りましょうという感じ。
上座部仏教とは、救いは自分でがんばらないと到達できないものだから、我々はおのおの個人で修行しましょう、という感じ。

寂雷は大乗仏教側で、しかも自分を救う側だと定義してるっぽいので寂雷は個人ではめちゃくちゃがんばる。でも寂雷の世界では、寂雷以外はそんなにがんばらなくていいのです。だって寂雷が救うから。寂雷ががんばることで全員が幸せになる。

一方空却が上座部仏教側ならば全然話が違う。空却の世界で全員が幸せになるためには、全員が個人でがんばらないといけない。空却が無条件に全員を幸せにすることはできないのです。

寂雷はバスの運転手みたいなもので、空却はマラソンランナーみたいなもんだろうか。寂雷の世界では乗客は座って祈っていたら寂雷が目的地まで連れて行ってくれるけど、空却の世界ではみんな自分で一歩一歩テクテク歩いて走ってゴールを目指さないといけない。
空却は寺の子で僧侶見習いだから、一般人よりはマラソンのコツをしっているから、そっとドリンクを手渡したり地図を渡したりはできるけど、空却がゴールまでおんぶして連れて行くことはできない。

だから空却は「救うなんておこがましい ただ補うだけ」と言う。空却の世界では、自分を救えるのは自分だけだからです。空却は手助けし、補うことしかできない。

だから空却はことあるごとに十四を(獄も)修行させる。なぜなら空却は十四と獄に幸せになってほしいから。空却の世界では、救いは自分で見つけないといけないもので、修行こそが救いへの唯一の道だから。

もちろん寂雷もみんなに幸せになってほしい。だけど寂雷はひふみや独歩に修行しろとは言わない。修行し、がんばるのは寂雷だけでいいからです。寂雷ががんばってがんばって人間を超えて強くなれば、全員救えるからです。(だからセカンドバトルのナゴヤとシンジュクのドラマにはスーパーマン(超人)という語が頻出したのかな?)

 

寂雷と空却はふたりとも人類の幸せを追求する人たちなんだけれど、その方法論が全く異なっているのです。だから意見が食い違う。

TOMOSHIBIで寂雷は救済を金魚掬いにたとえていたけれど、寂雷は無数の金魚を救うためにたった1人で孤独な金魚すくいをやり続ける人なのだ。一方空却は金魚なので、空却金魚は他の金魚たちと修行してジャンプ力や肺活量(?)を鍛え、自力で水槽から出ようとしているということなんだろう。


というのがセカンドバトル『Light&Shadow』における寂雷と空却の意見交換会だったのかなぁと。その後寂雷は乱数や獄を知ることでなにか心境の変化があったみたいだけど、それは寂雷の今後のスタンスに生きてくるんだろう。
7連続CD、楽しみですね。

(空厳寺の宗派は上座部仏教だ、ということではありません。あくまで、空却は個人的に上座部仏教的な考え方をしてるのかもなー、だとしたら寂雷とのバトルに辻褄があうなー、といった話です。現在の日本の仏教はほとんどが大乗仏教由来です。)